
思いつくまま書きます。
思考メモなので、まとまりのないことご容赦を。
(以下、常体です)
最近『我傍に立つ』のレビューをいただいたことをきっかけに、自分が二十代のころに書いた文章を見返し、「地に立つべきだ」と書いていたことを思い出して少々驚いている。
そう言えば、あの頃は「地上」つまり「人」としての立ち位置をとても重視していたな。
中庸とは何か、より再転載
「まず君は、君自身を知らなければいけない」/
「そうだよ。私達はまず最初に、自分が大地の上に立っていることに気付かないといけない。つまり人間は、天の上でもなければ、地の下でもない、その真ん中の大地の上に立っているということだ」
うーむ。……当時の自分が何を拠り所としてこれを書いたのか全く思い出せない。笑
自分自身が幼い頃から抱いていた想いを書きなぐったことは確かなのだが、それにしても二十代でこんなことを書くかなと自分で疑いを抱くほど妥当と思う。
(自画自賛? 褒めているわけではないので。念のため)
“若気の至り”
などと言うけど、逆に自分の場合は若い頃のほうがストレートに本心(魂)と呼応していた気がする。
当時まだ公表することを前提として書いていなかったため、他人を意識せずに書いており、そのために魂の衝動のまま書くことができたと言えるか。
24時間、集中して書けたことも本心を記せた理由の一つにあると思う。
※当時は仕事がなく一年間、完全に集中して書けた。飲まず食わずで24時間書き続けた日もあった。それで死を予見したので、以降の小説ではエネルギーをセーブして書いた。言い訳。笑
「君自身を知らなければいけない」については一見ソクラテスっぽい表現だけど、ソクラテスを意識したわけではない。
“立ち位置を知って受け入れるべき”
ということがずっと自分の主義だっため、こう書いたのだったと思う。
神より悪魔より“人間”が強いと信じていたことも確か。
あの頃は、今よりも地上が好きだったし人間を信じていたなと思い出す。
全てにおいて真ん中、すなわち「中庸」が最も強靭であるという考えは今も変わらない。
我々は神でもなく悪魔でもない、地に立つ者であるからこそ強いのだという信念も変わらない。
ただ最近は少し「アセンション(次元上昇)」という考えに影響されていたかな。
人間の残虐さと欲深さ、真実を求めない不誠実さにうんざりして、もうこの地上に別れを告げて早く浮かび上がりたいと考えているのは事実。
もしポールシフトなどで地上がリセットされ、浄化してもらえるならそれもいいだろうと思ってしまう。
他人を虐めることに快楽を覚える人間たち、どうかこの穢れを浄化して欲しいと願ってしまうほどだ。
……でも過去に自分が書いた文を読んで反省した。
やはり、闇雲なアセンションはいけない。と言うより、有り得ない。
たとえば地球が生物の住めない星となったとしても、「まだまだ修行が必要」と判断された魂は他の星へ行くだけなのだ。
我々は魂から、中間の存在である。
神や悪魔になってはいけない。
※20/4/23補足 ただし魂は本質的に元から「神」なる存在である、一つの魂は「神」「世界」と等価であると言える。「神や悪魔になってはいけない」とは地上定義においての話。むしろ中庸が本当の意味での「神」と言えるかもしれない。次元による用語定義の整理→『神は死にません。「神」とは何か、このブログにおける用語定義』
地上に降りることは何も「肉体に閉じ込められる」という意味しかないわけではない。
確かに一瞬の閉じ込めではあるのだけど、まずは地上に立ち分を作り上げる(=人生を創造する)からこそ初めてアイデンティティを持ち強くなれる。
これが、古代ギリシャ哲学が言うところの「汝自身を知れ」。
古代東洋思想、それこそ中庸はこれに等しいと思う。
追加。『我傍』時点から見て未来の書物だけど、『菜根譚』にも近い。過去記事で私も共鳴していた、笑。→菜根譚~普通に生きるに勝る修行はなし
もちろん「自身を知れ」とは、滅びゆく地表に「機械の肉体を得てまで這いつくばれ」ということではないのだけどね。
重たい肉体にいつまでも閉じ込められる必要はない。
たとえ肉体を失っても、地球で生きられなくなっても、「中間」の存在であるべきだという意味。
いずれ地表から浮かび上がり段階的にシフトチェンジするだろう。
その場合にも遠く永遠に近い時間、個性はある。
いきなり「色即是空」で悟りを得て空になれると思うのは浅はか。
うぬぼれるなよ、人間ども。(自分も含め)
それで、最近よく問い合わせのある『ヘリオセントリック』について記事を書くために調べていたのだけど、やはり今のところ肯定的な感想が湧かず悩んでいる。
「ヘリオセントリック」は松村潔氏がまた日本へ持ち込んだ、新しい占星術の手法。
これまで地球視点から眺めてきた西洋占星術を視点転換させ、太陽視点から眺めるというもの。
曰く、
――コペルニクス的 大転換
――俯瞰思考で読める
――アセンションの準備ができる
との売り文句だが……。
うーん。
確かに外見上はそうなのだけど、果たして現実そういう解釈になるのかな。
私が思うに、俯瞰とは単純に上から見ればいいというわけではない。
(中庸が、単純に二分の一ではないのと同じこと)
そもそもこの「ヘリオセントリック」を生み出し、すがっている欧米占星術師たちの心理が読めないだろうか。
私には痛いほど分かるけどな。
彼ら欧米の占星術師は、中世からずっと宗教によって迫害されてきた。
宗教の権威が緩んだ近代以降は、さらに科学という権威が圧力を増してきて
「現実の天体は地動説だ。占星術は、現実の天体と違うではないか!」
と言われ潰されかかっている。
それで一時期から「現実の天文学」ふうに太陽中心主義へ方向転換してきたのだけど、これをもっと正確に「地動説」「太陽視点」へ変えたのがヘリオセントリック。
要するに、迫害されないための回避だよね。
逃げの理論。
当たるとか当たらないは、彼ら占星術師にとって関係ない。そんなことより自分の生活が大事。死活問題なのだから。
「アセンション」も、実は関係ない。
彼らにとっては現代の天文学へすり寄って行って、「科学」風の装いをまとうということが何よりの目的。
個人的には、そんなことをしても無駄だと思うよ。
科学者は何を言っても占星術を認めない。何故なら最初から宗教のように「異端は認めない」と決めているからだ。結論ありきの人たちへ無駄に尻尾を振って、「占い」としての本質を見失うのはどうかと思う。
私が現代占星術で根本的に間違っていると思うのは、プロを含め多くの人たちが占星術の発祥について、未だに紀元前4~1世紀ごろに「天体の観察」で生まれた(二千年ほどの天体観察をもとにしてこの頃に作られた)と信じていることだ。
「占星術は人類の編み出した科学なのだ」という嘘を鵜呑みにしている。
だから、占星術は「現実の天体に合わせて占わなければ嘘」と思い込んでいる。
そんな考えからサイデリアル信奉も未だに根強い。
そうではなくて、我々が遥か昔に宇宙からこの星へ降り立った時、
「今・ここ」
を表すタイムスコープとして用いたのが占星術の原点。
と言うよりは、もともと宇宙共通言語として占星術があったのだと推測する。
※少なくとも紀元前4~1世紀発祥ではない。→ギョベクリ・テペ遺跡参照
仮に宇宙共通言語だとすると、
「今・ここ」
を表わすためには、必ずその惑星の地表からの視点で表さなければならない。そうでなければ、広い宇宙において位置を表すことができないでしょうに。
場所と時間: 太陽系/地球/地表上の位置/年月日時
これだけのことを表すためには、地表に立った視点でなければ不可能。
さらにこの場合、全時代共通のタイムスコープとして使うために架空の「牡羊座」を0起点と決めておく(春分時)。
※要再検討、再分析
結論として占星術では「地平線」が最も重要な基準なのであって、だから発想としては必ず「天動説」でなければならない。
実は哲学的(形而上有)に考えると、天動説が惑星で生きることの本質を正しく表しているとも言える。
まず魂は地表に立たなければ個性が育たずアセンションもできないので、いったん天動を受け入れて、分を守り生きていくべきだ。
これは、「ある設定で考える」という思考上の前提だから、現実と混同すべきではない。
つまり現代占星術のおかしさを分かりやすくたとえると、
「現実の天体は地動説だ! 占星術も地動説でなければならない!」
と主張する人は、
「現実の地球に緯度経度のラインは引かれていない! 緯度経度なんて嘘だ!」
と主張する人に似ている。
誰もが地球に緯度経度のラインが引かれていないことを知っているが、全人類の約束事として地図を見る時にその概念を使うでしょう。
そんなとき、「地表にラインがない! こんなの嘘だ嘘だ」と騒いで地図を破り棄てる人がいたら、愚かに見えないかな。
私には、現実天体を理由として「古代の占星術は嘘!」と騒いでいる人たちはこんなふうに見えている。
もちろん、私はヘリオセントリックを全否定する者ではない。
今これだけ「当たる、当たる」と騒いでいる人たちがいるので、何か理由があるんだろと思っている。
その「当たる」という裏付けを今のところ私は見つけられずにいるのだが、いずれ見つかるかもね。
個人的に考えているのは、太陽系という大住所を示す時にヘリオセントリックは使えるかもしれないということ。
この場合は太陽に立っていると想定し、他の惑星系や銀河を見なければならないから、人間にはまだ難しいのではないかと想像している。
〔関連記事〕
・「占い」から逃げ続ける西洋占星術の今後/『時空旅人』感想2
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