中庸とは何か?(2018年版) 伝えることの難しさ
いただいたメールに刺激を受けてこれを書きます。
(B様、ありがとうございます。これは返信記事ではないのですが、いつもヒントになり記事を書きたくなるお話に感謝致します)
引用
私が「我傍に立つ」の中で一番印象に残っているのは至暁が義理の息子に、人は常に真中を選択することがよい、と伝える場面です。これこそがまさに水瓶座の理想とする世界のように感じ、このように世界をおさめようとする方がいらっしゃったのだ、と非常に感銘をうけました。声の大きいひとがのさばる世界はもう、うんざりです。ありがとうございます。恐縮です。
>人は常に真中を選択することがよい、と伝える
おっと、私はそのような生意気なことを書いていましたか? 汗
細かいことを忘れているので見返して確認してみました。
『我傍に立つ』十一章より転載。
「まず君は、君自身を知らなければいけない」なるほど……本当に書いていましたね。
戦闘計画を教えてくれと言った息子に、最初に伝えたのはその言葉だったと思う。
(略)
「そうだよ。私達はまず最初に、自分が大地の上に立っていることに気付かないといけない。つまり人間は、天の上でもなければ、地の下でもない、その真ん中の大地の上に立っているということだ」
彼が、それと戦闘計画とどういう関係があるのか、という顔をしたので私は笑った。
「どんなことでも、これが最も大切なことなんだよ。全ての物には真ん中があって、人間は、いつもこの真ん中を選択しなければいけないんだ。戦闘計画でも常に、このことを心がけなければいけない。たとえば多過ぎる兵では動きが鈍くなるし、少な過ぎる兵では敵に歯が立たないだろう? なんでも中間がいいんだ。中間を選択していれば、たいていのことはうまくいく」
「それは、どんなことでも無難な方法を選ぶということですか? でも、それでは決して、大きな勝利は得られないのでは……」
紡の鋭い質問に感心しつつ私は答えた。
「真ん中は、確かに無難だよ。けれど真ん中は、無難なだけではない。他のどんなものよりも、強いんだ」
「強い、ですか」
「ああ。真ん中は最強だよ。どんなに強い兵士を持った軍隊でも、どんなに変わった作戦を持った軍隊でも、真ん中をきちんと選択している軍隊には決して敵わない。逆に言えば、真ん中さえ選択していれば、どれほどの強敵と直面しても負けることはないのさ。もちろん、大きな勝利は得られないかもしれないけれどね」
私が普段、突飛な作戦を考えているという世間の噂を信じていた紡はよほど面白い法則を教えてくれると期待していたのだろう、この常識的な言葉に落胆した。私はその様子を見て笑った。
「言っただろう、敵に勝つための絶対的な法則などない、と。敵を欺くための戦闘術なんてものは、この世には存在しないんだよ。戦闘の法則があるとしたら、それはただ、当たり前のことを実行しなさい、ということだけだ。その代わりに当たり前のことを守っていなければ、必ず負ける。それだけは確かだ」
紡はいまいち納得できない、といった顔をしていたが、やがて言った。
「う……ん、なんとなく、わかったような気がします」
「そうか。それは良かった。でも真ん中を選択するということは、本当に大切なことだよ。戦闘だけではなく、全てにおいて大切なことだ。なにしろ人間は真ん中でしか生きられないからね。たとえば神になりたいと願っても神になれないし、悪魔になりたいと願っても悪魔になれない。最高の善人を目指しても無理だし、最低の悪人を目指してもそれも無理だ。……人間はとにかく、中間のものしか手にすることはできないし、中間でしか生きられないんだよ。だから、それを自覚することが大切なんだ。でもそうして自分が中間の存在であることを知った者は、本当の意味でこの世界の全てと仲良く生きていくことができる。そういう人には神や悪魔ですら勝つことができない。何故なら神や悪魔などの極端な存在は、中間に勝つことは決してできないからだ。だから私は、真ん中こそが最強で、真ん中こそが真実だと言っているんだよ」……
※『我傍』完全版のみ収録。過去の公開原稿ではカットしている場面です
これを書いたのは、現実には24歳。
生意気なことを! と今の目から見て思ってしまいます。笑
その後の戦闘計画の陰陽表現については、もはや何を言っているのか自分でもよく分かりません。苦笑
(分からない、と言うのは冗談ですが。何か一生懸命に背伸びして書いていた記憶があり、恥ずかしいですね)
余計なことながら自分で突っ込んでおくと、「神と悪魔」の表現に関しては現代視点で、西洋の考えが入り込んでしまっています。
東洋思想に変換する知識も技量もなく、現代表現のまま書いてしまった。まあ若輩ゆえ、ご容赦を。
しかし改めてこうして眺めると、変わっていないなあ自分……と思います。
未だに同じことを言っている。
まさに不動宮、悪く言えばワンパターン。笑
これも私が批判されるところなのですが。
上の転載箇所は「分をわきまえる」ということにも関わりますね。
さらに、今から考えれば東洋思想の『中庸』のことを指していたように思います。
実はこの執筆時に東洋思想の『中庸』を学んでいたかと言うと、NOなのです。書物としての『中庸』はまだ読んでいなかった頃と思います。(もちろん今世で、の意味)
酷い適当さですね……すみません。なるべく余計な情報をインプットしてから書きたくなかったもので。
だから当時の自分が何を拠り所としてこの文を書いたのかよく覚えていないのですが、生まれた時から持っていた感覚であることは確かです。
そして今よりも、執筆当時の自分のほうがより強く中庸を信じて語っていたようです。
思い出させてくださったことに感謝です。
>これこそがまさに水瓶座の理想とする世界のように感じ
なるほど、そうですね。
確かにバランス感覚のある水瓶座は、東洋的な中庸を体現しやすい本能を元々持っています。
しかしそう考えると、水瓶座要素を全く持たない人は、この中庸を理解するのは難しいのかもしれません。
私は自分が分かることなら、説明すればすぐに他人も分かるはずだと思ってしまうところがあります。反省し、もう少し丁寧に説明しなければと思います。
それにしても最近は堂々と中庸を宣言することさえ危険な世の中になってしまいました。
現代日本には「中庸」を目の敵にしている人々が多いからです。
(この人たちが、もしかしたら「声の大きいひと」たちなのかもしれません)
特に左右の極端な思想に取り憑かれる人が多い現代では、中庸主義者が敵対視され叩かれることが増えたと感じます。
彼ら極端な人々が言うには、
「何の役にも立たん中庸は白痴(バカ)の思想だ」
とのこと。/どちらかと言うと偏りのある思考のほうが脳力を使わないため脳が衰え、いわゆる「バカ」になるはずですがね。
おそらく彼らにとって、中庸主義者(前世代的用語ではノンポリ、と呼びますか?)は自分たちの味方にならず、都合良く利用できないから邪魔なのでしょう。自分たちにとっての利用価値がないということを「役立たず」と言うのは、あまりにも自己中心的です。
さらに現代では「中庸」の意味を理解しない人たちも増えましたね。
たとえば私が時々記事で「軍事」などの単語を書いたりすると、彼らはその単語だけに脊髄反射で反応し
「お前はウヨではないか! 中庸ではないッ」
などと非難してくる。
だめだ、この人たちは中庸という言葉を使っていながら全く言葉の意味を分かっていない……どうすれば伝わるのか……と悩みます。
例、中庸の言葉を勘違いしている人たち
(この時は怒っていたので表現がキツイかもしれません。苦手な方は要注意)
中庸とは単純な二分の一ではなく、両極・全体を考えたうえでの最も適切な考え方のことです。
このため、たとえば政治においては「軍事」も「平和」も同等に考えるものです。
一方を完全にカットしてしまうのは「中庸」ではありません。時勢により両極に近いことも考える場合があります。
だからこれはヤジロベエの支点よりも、ぐるっと巡る円形(輪)の中央からの視点を思い描いたほうが正しくなります。
単純に平衡を取るのではなくて、輪の全体を眺め尽くしたうえで適切な取捨選択をするからです。
単なる無難とは少し違うわけです。
(むろん、適切な方策は結果として最も安全となり、無難にも見えますが。軍事の基本は「最小リスクで最大効果を得ること」です。
西洋占星術を学ばれている方には、この「輪を見渡したうえでの取捨選択」がイメージしやすいはず。
私がよく、
「俯瞰思考の訓練に占星術がいい」
と言うのは、バラバラに散らばっているたくさんの情報を見渡して重要ポイントを見抜く力を鍛えることができるから。
これはたとえば物語のストーリーを読んでテーマを探すこと、つまり「文脈を読む」ことにも通じる作業と思います。
現代人の多くは「中庸」と言うとその本の半分に当たるページ、物理的な中間を指すと思ってしまう。
しかしそうではなく、真の「中庸」とは本全体に描かれたテーマを示すことです。
物語のテーマ、文脈を読み取るためには一語や一ページに囚われていては不可能です。しかし思考に偏りのある人はどうしても一語・一ページに囚われてそこから出て来られません。これを「思考停止」と呼ぶ。
現代には、こういう人がとても多いと感じます。
――と、こう書いてもまだ感覚的に「中庸」を感じたことのない人には難しいでしょうし、「中庸」そのものに反発を覚える人は多いでしょう。
伝えることは難しいですね。
根気良く伝えていきたいです。